アメリカ陸軍は、拡大する一方のヨーロッパの戦況を背景に、小型軽量で悪路の走破性に優れた四輪駆動車を、偵察あるいはパーソナルキャリアとして開発する必要がありました。
1940年5月、歩兵、騎兵、補給部隊と民間の技術者によって小型四輪駆動偵察車開発小委員会が発足され、それまでの馬やロバに代わる小型四輪駆動車の基本構想を練ることになり、同じ年の6月27日、同小委員会は、
という最初の計画案を取りまとめました。
この計画案を7月1日に同小委員会の上部組織である陸軍軍事補給部技術委員会で協議し、車両重量1,275ポンド(585Kg)、ホイールベース80インチ(2.03m)、車高40インチ(1.01m)等に一部原案を変更した規格を決定し、7月11日にこの決定どおりのスペックで、野戦テスト車70台を75日間で製作のうえ納入し、そのパイロットモデルを49日間で引き渡すこと。という条件の入札案内が、百数十の自動車メーカーに対し発送され、ここに1/4トン軍用車の開発競争が始まることになりました。
当時経営不振であったアメリカンバンタム社と、軍と強い協力関係にあったウィリスオーバーランド社の2社は、入札案内に積極的に参加しました。
7月17日 、アメリカンバンタム社は、社運をかけて自動車コンサルタントの天才的技術師、カール・K・プロブストを軍用車開発のチーフエンジニアとして迎え、
7月21日 、プロブスト氏は、わずか5日間で基本設計や入札のための青図、見積書等を作成し、その天才ぶりを発揮しました。
7月22日 入札日、アメリカンバンタム社とウィリスオーバーランド社が、入札に応じました。
ところが、ウィリスオーバーランド社は、入札後49日間でパイロットモデル1号車を納入する事に不安を感じ、この入札から降りてしまいます。
9月21日 までの47日間で、アメリカンバンタム社は、パイロットモデル1号車を、連日の突貫作業の末、ついに完成させ、簡単な悪路走行テストまでも済ませてしまいました。
9月22日 には、最後の点検と試験が繰り返され、特に大事な部分の手直しがされ、数カ所の改良と、簡単な化粧直しが施されました。
9月23日 、納入期限であるその日、アメリカンバンタム社のパイロットモデル1号車は、ペンシルバニア州バトラーから、約250マイル離れたアメリカ陸軍補給本部のあるメリーランド州バルチモアのフォート・ホラーバードキャンプに、午後4時30分到着し、テスト車納入期限のタイムリミット30分前という、ドラマチックな納入となりました。
この車は、なんとも頼りないバンタム1号車であったのですが、フォート・ホラーバードキャンプでの1カ月近い過酷なテストの結果、軍は小型四輪駆動車の実用に自信を深め、さらに不備な部分を指摘し、アメリカンバンタム社へプロトタイプ社の発注をすることが決定されました。
ところが軍は、1,500台のプロトタイプ車の発注の必要があったのに、アメリカンバンタム社へは500台の発注とし、ウィリスオーバーランド社とフォード社に対して、バンタム1号車のデータを与えたうえで、各社独自のパイロットモデルの納入を命じました。
その結果、ウィリスオーバーランド社から11月11日、同社の副技師長デルマー・G・ルースの指揮設計による「QUAD」(四角い奴)と呼ばれるパイロットモデル車が納入されました。
11月14日 、軍は3社に対して、当初予定していた500台づつではなく、1,500台づつの注文をすることとなりました。
11月20日 、フォード社は1,500台のプロトタイプ車の受注契約をしていますが、不思議なことに、
11月23日 になって初めて同社は軍に対し「PYGMY」(小人)と呼ばれるパイロットモデル車を納入しています。つまり、軍はフォード車のパイロットモデルのテストを1度もすることなく、プロトタイプ車1,500台を注文したことになります。やはり巨大な生産能力と高い技術力を持っていたフォード社は、特別扱いされていたのでしょうか?
「QUAD」や「PYGMY」は、バンタム社のパイロットモデルより細部に改良や発展がありましたが、多少の欠点も見られました。3台のパイロットモデル車は、それぞれほぼ軍の規格要求に合致していました。しかし、車両重量だけは規格内にすることができず、各社の設計技術陣たちを悩ませていました。
その後、軍は重量制限を1,275ポンドから2,160ポンドへ引き上げると共に、量産車はMIL規格の大型ダイナモやバッテリーを採用し、ボディー、シャーシ等の鉄板も厚いものを使用させ、重量軽減よりも耐久性を重視するようになったのです。
1941年、アメリカンバンタム社はパイロットモデルに改良を加えました。
「BANTAM 40 BRC」を製造し、主にイギリス軍とソ連軍へ供給しました。
ウィリスオーバーランド社も「WILLYS MA」を製造し、主にソ連軍向けの車両としました。
フォード社の改良型は「GP」と呼ばれ、主にイギリス軍向けとなり、これは「BLITZ BUGGY」電撃作戦車としても有名です。
こうして「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」は、アメリカ軍による過酷なテストとヨーロッパ戦線での実戦配備によって比較検討されていきました。
1941年7月、ヨーロッパ戦線は、更に拡大する様相をみせ、アメリカ軍の制式車両の発注は急務となり、ベーシックモデル(標準規格)の小型多用途偵察用四輪駆動車は、各社比較の結果、最も強力なエンジンとフレームを持つウィリス「MA」が選ばれ、これを更に改良しボディーのデザインは「GP」によく似たもので発注入札が行われました。
その結果、ウィリスオーバーランド社が落札し、7月23日アメリカ国防補給廠と、16,000台の最初の契約が結ばれました。こうして「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」による過酷なジープ開発競争に終止符が打たれたのです。
ウィリス社の「MB」は、公式名称「Truck 1/4ton 4×4 Command Reconnaissance Willys MB」として誕生し、10月4日には巨大な生産能力を持つフォード社がウィリス社の共同生産社に加わることが政府から要請され、15,000台のフォード「GPW」の最初の契約が結ばれたのです。
この契約は、生産台数拡大の方針と、ウィリスオーバーランド社の被爆等による事故や、ストライキ、サボタージュ等を考慮した上での処置と思われますが、天下のフォード社がはるかに小規模の会社であったウィリス社の車両を生産するというこの契約は、自動車業界では異常な出来事でありました。
「MB」は終戦までにオハイオ州トレドのウィリスオーバーランド社の工場から終戦までに合計361,349台生産され、「GPW」はミシガン州デトロイト、ペンシルバニア州チェスタ、テキサス州ダラス、ケンタッキー州ルイズビル、カリフォルニア州リッチモンドのフォード社の5つの工場から合計277,896台生産されました。
ジープの標準的原型である「MB」は、ウィリス社によって生産されたものですが、この標準規格化されたジープは「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」の過酷なテストと実戦配備のカットアンドトライによる機能の追求から生まれた物であり、各社の技術陣と軍補給部による、自動車王国アメリカの自動車関連産業の頭脳陣が結集して完成した物で、この官民一体となったナショナルプロジェクトチームにより完成された世界唯一の自動車は、現在のスペースシャトルを凌ぐ物といえるかもしれません。
スミソニアン博物館のジープ達ジープを賛美するとき、まだ言葉のわからない幼児から腰の曲がった老人までジープを知らない者はないとよく言われます。確かにジープは、見る者にインパクトと印象を与えます。
数ある工業製品の中で、宣伝もしないのに世界中にその名を轟かせた物は非常に少なく、通常、メーカーは巨額の宣伝費を投じ、消費者にアピールし、製品の名称を覚えさせようとするものです。
ジープは当初、これを宣伝、販売する事ができませんでしたが、にもかかわらずジープの名は地球の隅々にまで浸透しています。
自動車メーカーの思惑と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、わずか数年前の自動車を見るとき、それが未登録の新車であったとしても、明らかに数年前の古い車に見えてしまいます。
MB/GPWと呼ばれるクラシックジープが、完全にレストアされ、どこかの街角に駐車していたとして、これらの老兵達が、50年以上も前に生産されたクラシックカーとして見る人がどれだけいるでしょうか?
必要なもの以外の全てを取り除き、人間工学と機能の追求から生まれ、ボンネットからリアボディへのまるで箱を思わせるデザインは、単にプレスの容易さからのデザインとは思えない究極のスタイルとなっており、各部は黄金比によって構成され、時代をはるかに超えた美しさを持っています。
1930年から1940年の自動車にみられる、前後のフェンダーとボディが別物でフロントフェンダーの上部にヘッドライトをのせた自動車デザインに、革命を与えるようにボディとフェンダーを一体にし、ヘッドライトをラジエーターグリルの中に納めるデザインは、後のあらゆる自動車のデザインに大きな影響を与え、四輪駆動のためのメカニズムも多少の改良はみられるものの50年たった現在でも殆ど進化がみられないこともまた事実です。
戦後アメリカ兵達の持ち込んだジープは、日本の自動車業界にも強烈なインパクトを与え、自動車設計者達はもとより、自動車デザイナーにも大きな影響を与えました。
ジープは戦後の国産車設計の良きお手本であり、ジープがなければ、今日の世界第一位の自動車生産大国日本は存在し得なかったのではないでしょうか。
The famous cutaway of the MB1940年代の世界の緊急事態に対応するためにアメリカ政府は、GI(若きアメリカ兵達)を全米のあらゆる地域から集め、それまで自動車など見たこともない者達にまで、それこそオートバイから戦車まであらゆる乗り物を与え訓練しました。
ジープは、自動車王国アメリカが、若者達に与えた高価な玩具でしたが、その性能は設計者達の想像をもはるかに越えた自動車とは思えない能力を発揮し、D-Day(ノルマンディ上陸作戦)では、まるでストーブの煙突のような吸排気管をつけた防水ジープは海からやって来て、子犬のように身震いし海岸を走り出しました。また、山間部では、パラシュートをつけて空からやって来、整備された道を1度も踏むことなく何カ月も作戦行動に従事しました。ジープは、雪やぬかるみ、 ジャングル、峡谷、砂漠を走り抜け、バンパーは曲がり、フェンダーはめくれ、塗装は剥げ、鋼鉄のボディに穴が開いても戦場を走り続け、GI達の命を守り続けたのです。
ジープはまるで、ナイトを乗せる白馬のようで、若いGI達の志気を向上させ、連合軍を勝利へと導きました。戦後のジープ賛歌に、「ジープ無くして勝利は無かった」と言われるのはこのためでしょう。
独特のギア比による加速、きびきびしたハンドリング、卓越した機能美から生まれたスタイルをもつジープで、フロントウィンドーを畳んで風を感じるとき、ドライバーはジープと一体になり、純真な子供になれるものです。このフィーリングは、ジープ以外のどんな自動車を持ってきても感じられないものです。ジープは遊園地の自動車の兄貴分のようで、子供から大人までを見ているだけでワクワクさせてくれる唯一の自動車ではないでしょうか。
自動車メーカーが商品として売り込むために、無駄なデザインと利益追求のためにコストダウンされ尽くした車でなく、機能追求から生まれたデザインと、兵器として生まれてきた悲しさが、ワイルダネスアウトドアーの足として大自然の中に溶け込み、その悪路の走破性は西部開拓時代の馬のようであり、アメリカ人のパイオニアスピリットとして生き続けているのです。
ジープは兵器として生まれ、その永続性については全く考えられていませんでしたが、機能追求のみでデザインされたそのスタイルを今日のデザイン学によって分析するとあらゆる部分において究極のサイズと言われている黄金比で構成されていることがわかります。
その生産目的から誰もがその永続性を考えることのなかったジープは、戦後世界中で払い下げられ、多くはスクラップとなり溶鉱炉で溶かされ、また農業機具や建築器具の一部として、トラクターの替わりにあらゆる作業に従事しその万能ぶりを発揮し経済復興の助けとして活躍していました。
一方、ヨーロッパの貴族階級を中心として程度の良いジープが歴史的な資産として保存され続けていました。彼等にとってはまさしく、旧ナチスドイツ(と旧日本軍)から救ってくれたGIの乗る「白馬」であり、「神馬」であったわけです。
現在においては、欧米中の博物館や個人のコレクターのもとで、沢山のクラシックジープが優れた状態で保存されています。
私たち「JMVCC 日本クラシックジープ協会」は、日本においてもこのすばらしいクラシックジープを「クラシックカー」として認知し、保存していこうとしているのです。