2006年08月04日

(久々に)テレビにでました

取材当日

去る2003年5月22日、日本テレビ系列、「MOBI」という番組の取材を受けました。

取材対象はGPAでした。

放送日は、2003年6月19日(木)と6月26日(木)ということです。

JMVCC会長、白石もハニカミながら登場する予定ですので是非ご覧ください。


まずは真面目に車両の撮影

スクリューもアップで

ちょっと照れてる白石会長

本番前のテスト航行中。運転は高村氏。

航行中の助手席から。水面がすぐそこ!

無事に陸に戻れました。

ちゃんと台本もあるのです。

本番中!

~なぜ取材を断りつづけていたのか

ナショナルプロジェクトにより作られた”seep”

撮影終了後。見物の子供と。1941年7月、米陸軍が策定した、四輪駆動小型ロードスターの指揮偵察車はジープと呼ばれ、1940年代の米国の自動車関連の頭脳を結集させたもので、いわゆるナショナルプロジェクトにより作られるスペースシャトルのような車でした。
多くの商品と同様の利益追求のためのコストダウンは、ジープには存在しません。悲しいまでの機能追及とナショナルプロジェクトによって作り出されたジープは還暦を迎える今も少しも色あせることは無いのです。

こんなジープの虜になり、オリジナルジープのレストア(restoration、復元、修復)を経験するうちに水陸両用ジープ ”seep(sea jeep)” のメカニズムがとても気になり、FORD GPA を10年ほど前に完成させ、山中湖での進水式も済ませました。

各地で行われるクラシックカーショーにもエントリーしてみましたが、オリーブドラブに塗られたGPAは、子供や一般の人達の間では人気者でも、主催者やジャーナリスト達からは色眼鏡で見られ、敬遠されつづけました。

クラシックカーショーの審査員達は、知識不足を曝け出すのを恐れるのか、適正に評価してもらえたことはありませんでした。
日本におけるクラシックカーショー(多分、世界的にはオールドカーやビンテージカーショーあたりの年代の車を対象としたショー)では誰一人やらない、ボディ下に鏡を入れ、工具や装備品を展示(どれも欧米では当たり前の展示方法)してみましたが、車両の純正度とか復元度、完成度は評価されず、欲しくも無い「最古車賞」などばかりを頂きました。

唯一、米軍の座間キャンプで行われたカーショーで、多くの車両のなかから”ファーストプライズ”の栄誉を得ることができました。
主催者はライブラリーから数枚のコピーを取り寄せ復元度をチェック、部外者の日本人にも適正な評価をする姿勢に驚かされました。

我国の自動車を取り巻く文化程度のレベルの低さと、ジープに対するマスメディアの偏見から、ここ7~8年月に一度はあるテレビの取材依頼を断リ続けてきましたが、番組制作のスタッフに今回の番組がバラエティ番組でなく、まじめな自動車番組であること、ホンダがスポンサーであることを力説され、取材に応じる事にしました。
しかし、どのように放映されるのか、現在のところとても心配なのは事実です。

我国の多くのジャーナリストが軍用の車両を敬遠することが文化人であるかのように錯覚し、道具としての「車」を正しく評価していません。
軍用のものは諸刃の剣。良くも悪くも現代文明に影響します。
軍用だから、民間だから・・・と私は考えません。
機能追及と、計算され尽くしたメカニズムは、硝煙や血の臭いがするとは思えないのです。
己が羽織るダッフルコートやトレンチコートに何の疑問も持たない。ましてや女子学生のセーラー服に疑問を持たないことに最大の危機と矛盾を感じてなりません。

26th May.2003
JMVCC会長(MVPA日本代表)白石 清

FORD AMPHIBIAN JEEP GPA

このGPAは1946年にアメリカ本土で払い下げられ、カリフォルニア州ロスアンジェルスの救急サービスセンターで特殊救急車として、1970年代まで使用されたものを1987年に輸入し、5年以上にわたり完全にオーバーホール(フレームアップ)し、ギア類、ベアリング類、防水ブーツ、シール類、ワイヤリングハーネスを新品と取替え、フルレストアしたものです。

GPAは1942年から1943年までに12778台生産され、、水陸両用JEEPは、SEEP(Sea Jeep)とも呼ばれました。カエルや河童を思わせるマスクはどこか両棲類を思わせるユーモラスなものですが、これもJEEPの機能美の一つです。機能美はもともと、野や川など自然の中にこそあったものかもしれません。

シリアル番号 GPA4002
アメリカ軍レジストレーション番号 U.S.A.705969
製造年月日 1942年12月11日
オーナー 白石 清

買い付け先のカリフォルニアにて

フルレストアされたGPA

ちゃんと浮く

あたり前だけど・・・すごいこと

製造会社 フォード・モーター・カンパニー
形式・年式 GPA・1942年
種別・形状 水陸両用車・オープン
乗車定員 5名
全長 4,618mm(181.83in)
全幅 1,339mm(52.75in)
ホイールベース 2,133mm(49in)
トレッド(前/後) 1,244mm
車両総重量 2,018kg(4,450lbs)
エンジン形式 水冷直列4気筒4サイクルサイドバルブガソリンエンジン
ボア×ストローク 79.4mm×111.1mm(3.125in×4.375in)
総排気量 2,199cc
圧縮比 6.480:1
最高出力 60HP/3,600rpm
最大トルク 14.7kgm(108Lbs-Ft)/1,800rpm
使用燃料・タンク容量 ガソリン・57L
トランスミッション形式 前進3速(2,3速シンクロメッシュ)後退1速
変速比 1=2.665/2=1.564/3=1.000/R=3.554
トランスファー変速比(ハイ/ロー) 1.000/1.970
アクスルレシオ 4.875:1
フロントブレーキ リーディングトレーリング
リアブレーキ リーディングトレーリング
駐車ブレーキ 機械式推進軸制動
サスペンション(前/後) リジットアクスル式リーフスプリング
ステアリングギアボックス形式 カム&レバー
タイヤサイズ 6.00×16-6PR
ホイールサイズ 4.50E×16

M38

M38ウィリスMC、米軍公式名称M38は、MBを製作したウィリスオーバーランド社ミリタリーモデル第3作Cタイプとして、1952年2月から60,344台製作されました。

M38は米軍初めての完全防水ジープで、24V電装。電装類は、ハーネスに至るまで完全防水で、エンジン、パワートレインも防水対策が施され、フーディングキット(吸排気シュノーケル)を取り付けることにより、約1.9mの水中走行が可能です。

1950年2月、オハイオ州トレドのウィリスオーバーランド社のMBと同じラインから、シリアルナンバー10001番から生産され、1952年6月までに70344番(60,344台)生産されました。M38は、非常に資料の少ないジープで、一般に、CJ3A(民間用のユニバーサルジープで、三菱の最初のノックダウン・ジープ)の軍用モデルといわれているようですが、仕様は全く異なり、24V電装、ハーネス・エンジン・パワートレインに完全防水を施し、ボディはCJ3Aのプレス流用も見られますが、各部の補強とインストルメントパネル周辺は、全く別のものとなっており、CJ3Aの軍用モデルとはとても思えない作りとなっています。

初期型と中後期型の違い

M38も、MB/GPW同様に、初期のものと中後期のものとでは仕様がだいぶ異なり、シリアルナンバーごとのレストアが必要となります。

大きな違いを2~3あげてみますと、フロントタイダウン、シャックルブラケットが、初期型ではフロントバンパーより中に、後期型ではフロントバンパー上部にあります。インストルメントパネルも初期型ではネームプレート類が直接リベット付けされ、中期からは6枚のプレート類を大きな鉄板にリベット付けしたものが使用されています。また、パワートレイン関係の防水も、初期のものでは、ベルハウジング、ミッションなどに排圧を加えておらず不完全なものでした。

さまざまな防水対策

すでに述べたように、M38は完全防水のジープで、大戦(WW2)中のアスベストグリースと耐熱セメントを用いたMB/GPWの防水化キットから発展したもので、ワイヤリングハーネスは、スナップカップリングと防水コネクターがふんだんに使われ、ライティングスイッチ、テールランプ、B/Oマーカーランプは、アルミダイキャストで作られ、レギュレーター、ダイナモ、セルモーターなども、ダイキャストカバーにラバーのOリングパッキンとネジで防水しています。

ディストロビューターも、アルミダイキャストケースでコイルとともに完全防水し、コイルの冷却用に配管を施してあります。また2次コード(ハイテンションコード)は、防水コネクターと銅線メッシュでシールドされたコードを使用し、スパークプラグも頭部を防水コネクターにした防水プラグが使用されています。


エンジンシリアルナンバー74419以降のパワートレインでは、トランスミッション、クラッチハウジング(ベルハウジング)やエンジンクランクケース内に発生する排圧は、エンジンオイル給油口(フレッシュエア側)にあるフーディングバルブとブローバイガス再燃焼側(吸入再燃焼用のパイプ)のフーディングバルブを閉じることにより排圧を発生させ、エンジンブロックに取り付けたフューエル/バキュームポンプのボディからパイプ配管し、クラッチハウジングと第二ミッション(トランスファー)ケースの上部にあるブリーザーに加えるものとなっています。これにより、排圧が水圧より高ければ水が進入してこないこととなるわけです。


フーディングバルブが開いている通常の状態のときは、ブローバイガスがマニホールドに吸入され再燃焼されます。

また、クラッチ、ミッションは、エンジンオイル給油口から流れてくるフレッシュエアが開放されることとなります。ブレーキマスター、ガソリンタンクのブリーザーも、エアクリーナーへと配管され防水化されています。


エアクリーナーは、MB/GPWと殆ど同じ型状のオイルバスエアクリーナーを使用していますが、空気を吸入する側が、ルーバー(後面にある)の代わりにパイプにし、吸入シュノーケルパイプの接続ができるようにしてあります。


Deep Water Fording Kit(吸排気用シュノーケル)を取り付けることによって、約1.9mまでの水中走行ができるようになったが、MB/GPWの1台のコストが700ドル前後であったのに、防水機構のコストアップに伴い、1台あたり約3倍の2,162ドルとなり、米軍ジープの中で最も製造コストの高いジープとなりました。

MB/GPWの機能を受け継いだ最後のジープ

2年5カ月後の1952年7月、M38はM38A1に世代交代することとなります。MB/GPWからのローシルエット(背の低いジープ)と、ローフードによる前方視界の良さは、M38を最後になくなってしまうこととなります。M38はMB/GPWの機能を受け継いだ最後のジープとなったのです。

M38は、朝鮮戦争時代のジープですが、朝鮮戦争には、距離が近く、技術力もある日本人が、修理・再生したMB/GPWを大量に前線に送り出したことと、M38A1の配備により、あまり使用されることとなく世代交代を迎えたのです。

ブラックアウト(B.O.)システム

B.O.システムとは、灯火管制システムのことで、ジープをはじめとする軍用車両においてはB.O.ドライビングライト、B.O.マーカー、B.O.テールランプから構成され、主に上空の敵機に発見されるのを防ぐために作られた灯火類です。戦時下の暗闇で使用され、月明かりなどで明るいときや、制空権が確保されているときは使用されません。

B.O.ドライビングライト

ブラックアウトドライビングライト

ひさしの付いたカバー付ヘッドライトで、光源をカモフラージュすると共に、直進性の強い光源を用いるため地面を照らさず直接障害物に対して側面から光を照らし、前方の物体を確認します。
上空から光源および照射面が見えないため極めて発見されづらいライトです。

ドライバー側のフェンダーに取り付けられ、比較的高い位置から点灯して使用されます。J54(自衛隊で使用のジープ)等では、フロントバンパーの上に取り付けられているようですが、取り付け位置が低いと効果がないと思われます。

B.O.マーカーランプ及びB.O.テールランプ

B.O.システムの中で、フロントマーカーランプ、テールランプは驚くほど科学されたもので、灯火管制時のコンボイ走行などの車両運行には欠かせないものです。これらは車両間の距離を判断するためのランプで前方あるいは後方約230mから点灯が確認できるが、120m以上の上空を飛ぶ航空機からは全く発見できないように設計されています。車両間の距離の判断は、ランプスリット奥にある三角形の数によっています。

ブラックアウトマーカーランプ ブラックアウトテールランプ

B.O.ライトスイッチ

B.O.ライトスイッチには、誤動作によるヘッドライト等の点灯を防ぐために、ロック(安全装置)が付けられており、OFFの位置では、ストップランプ、室内のパネルランプを含む全ての灯火類は点灯されません。

ブラックアウトライトスイッチ

VIVA JEEP -jeep伝説の50年

小型四輪駆動車 プロトタイプ誕生へ

アメリカ陸軍は、拡大する一方のヨーロッパの戦況を背景に、小型軽量で悪路の走破性に優れた四輪駆動車を、偵察あるいはパーソナルキャリアとして開発する必要がありました。

1940年5月、歩兵、騎兵、補給部隊と民間の技術者によって小型四輪駆動偵察車開発小委員会が発足され、それまでの馬やロバに代わる小型四輪駆動車の基本構想を練ることになり、同じ年の6月27日、同小委員会は、

  1. 高低2段変速の第2ミッションを有すること
  2. 四輪駆動であること
  3. 1/4トン積載、CAL30(30口径の機関銃が搭載可能であること
  4. ブラックアウト(灯火管制)ライティングシステムを取り付けること
  5. 四角いボディスタイルで、ウィンドシールドが折り畳めること
  6. 車両重量1,200ポンド以内であること
  7. ホイールベースは75インチ、車高は36インチ以内であること
  8. エンジン出力40馬力以上であること
  9. 最高速度50マイル以上、最低巡航速度3マイル以下であること

という最初の計画案を取りまとめました。

この計画案を7月1日に同小委員会の上部組織である陸軍軍事補給部技術委員会で協議し、車両重量1,275ポンド(585Kg)、ホイールベース80インチ(2.03m)、車高40インチ(1.01m)等に一部原案を変更した規格を決定し、7月11日にこの決定どおりのスペックで、野戦テスト車70台を75日間で製作のうえ納入し、そのパイロットモデルを49日間で引き渡すこと。という条件の入札案内が、百数十の自動車メーカーに対し発送され、ここに1/4トン軍用車の開発競争が始まることになりました。

当時経営不振であったアメリカンバンタム社と、軍と強い協力関係にあったウィリスオーバーランド社の2社は、入札案内に積極的に参加しました。

7月17日 、アメリカンバンタム社は、社運をかけて自動車コンサルタントの天才的技術師、カール・K・プロブストを軍用車開発のチーフエンジニアとして迎え、

7月21日 、プロブスト氏は、わずか5日間で基本設計や入札のための青図、見積書等を作成し、その天才ぶりを発揮しました。

7月22日 入札日、アメリカンバンタム社とウィリスオーバーランド社が、入札に応じました。

ところが、ウィリスオーバーランド社は、入札後49日間でパイロットモデル1号車を納入する事に不安を感じ、この入札から降りてしまいます。

9月21日 までの47日間で、アメリカンバンタム社は、パイロットモデル1号車を、連日の突貫作業の末、ついに完成させ、簡単な悪路走行テストまでも済ませてしまいました。

9月22日 には、最後の点検と試験が繰り返され、特に大事な部分の手直しがされ、数カ所の改良と、簡単な化粧直しが施されました。

9月23日 、納入期限であるその日、アメリカンバンタム社のパイロットモデル1号車は、ペンシルバニア州バトラーから、約250マイル離れたアメリカ陸軍補給本部のあるメリーランド州バルチモアのフォート・ホラーバードキャンプに、午後4時30分到着し、テスト車納入期限のタイムリミット30分前という、ドラマチックな納入となりました。

この車は、なんとも頼りないバンタム1号車であったのですが、フォート・ホラーバードキャンプでの1カ月近い過酷なテストの結果、軍は小型四輪駆動車の実用に自信を深め、さらに不備な部分を指摘し、アメリカンバンタム社へプロトタイプ社の発注をすることが決定されました。

ところが軍は、1,500台のプロトタイプ車の発注の必要があったのに、アメリカンバンタム社へは500台の発注とし、ウィリスオーバーランド社とフォード社に対して、バンタム1号車のデータを与えたうえで、各社独自のパイロットモデルの納入を命じました。

その結果、ウィリスオーバーランド社から11月11日、同社の副技師長デルマー・G・ルースの指揮設計による「QUAD」(四角い奴)と呼ばれるパイロットモデル車が納入されました。

11月14日 、軍は3社に対して、当初予定していた500台づつではなく、1,500台づつの注文をすることとなりました。

11月20日 、フォード社は1,500台のプロトタイプ車の受注契約をしていますが、不思議なことに、

11月23日 になって初めて同社は軍に対し「PYGMY」(小人)と呼ばれるパイロットモデル車を納入しています。

つまり、軍はフォード車のパイロットモデルのテストを1度もすることなく、プロトタイプ車1,500台を注文したことになります。やはり巨大な生産能力と高い技術力を持っていたフォード社は、特別扱いされていたのでしょうか?

「QUAD」や「PYGMY」は、バンタム社のパイロットモデルより細部に改良や発展がありましたが、多少の欠点も見られました。3台のパイロットモデル車は、それぞれほぼ軍の規格要求に合致していました。しかし、車両重量だけは規格内にすることができず、各社の設計技術陣たちを悩ませていました。

その後、軍は重量制限を1,275ポンドから2,160ポンドへ引き上げると共に、量産車はMIL規格の大型ダイナモやバッテリーを採用し、ボディー、シャーシ等の鉄板も厚いものを使用させ、重量軽減よりも耐久性を重視するようになったのです。

1941年、アメリカンバンタム社はパイロットモデルに改良を加えました。
BANTAM 40 BRC」を製造し、主にイギリス軍とソ連軍へ供給しました。
ウィリスオーバーランド社も「WILLYS MA」を製造し、主にソ連軍向けの車両としました。
フォード社の改良型は「GP」と呼ばれ、主にイギリス軍向けとなり、これは「BLITZ
BUGGY」電撃作戦車としても有名です。
こうして「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」は、アメリカ軍による過酷なテストとヨーロッパ戦線での実戦配備によって比較検討されていきました。

プロトタイプからベーシックモデルへ

1941年7月、ヨーロッパ戦線は、更に拡大する様相をみせ、アメリカ軍の制式車両の発注は急務となり、ベーシックモデル(標準規格)の小型多用途偵察用四輪駆動車は、各社比較の結果、最も強力なエンジンとフレームを持つウィリス「MA」が選ばれ、これを更に改良しボディーのデザインは「GP」によく似たもので発注入札が行われました。

その結果、ウィリスオーバーランド社が落札し、7月23日アメリカ国防補給廠と、16,000台の最初の契約が結ばれました。こうして「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」による過酷なジープ開発競争に終止符が打たれたのです。

ウィリス社の「MB」は、公式名称「Truck 1/4ton 4×4 Command Reconnaissance Willys MB」として誕生し、10月4日には巨大な生産能力を持つフォード社がウィリス社の共同生産社に加わることが政府から要請され、15,000台のフォード「GPW」の最初の契約が結ばれたのです。 

この契約は、生産台数拡大の方針と、ウィリスオーバーランド社の被爆等による事故や、ストライキ、サボタージュ等を考慮した上での処置と思われますが、天下のフォード社がはるかに小規模の会社であったウィリス社の車両を生産するというこの契約は、自動車業界では異常な出来事でありました。

「MB」は終戦までにオハイオ州トレドのウィリスオーバーランド社の工場から終戦までに合計361,349台生産され、「GPW」はミシガン州デトロイト、ペンシルバニア州チェスタ、テキサス州ダラス、ケンタッキー州ルイズビル、カリフォルニア州リッチモンドのフォード社の5つの工場から合計277,896台生産されました。

ジープの標準的原型である「MB」は、ウィリス社によって生産されたものですが、この標準規格化されたジープは「BANTAM 40 BRC」「WILLYS MA」「FORD GP」の過酷なテストと実戦配備のカットアンドトライによる機能の追求から生まれた物であり、各社の技術陣と軍補給部による、自動車王国アメリカの自動車関連産業の頭脳陣が結集して完成した物で、この官民一体となったナショナルプロジェクトチームにより完成された世界唯一の自動車は、現在のスペースシャトルを凌ぐ物といえるかもしれません。

スミソニアン博物館のジープ達
スミソニアン博物館のジープ達

Left to right Willys Quad(1940),MB(1942-45),MC(1950-52),MD(from 1952)

ジープは自動車デザインの原点

ジープを賛美するとき、まだ言葉のわからない幼児から腰の曲がった老人までジープを知らない者はないとよく言われます。確かにジープは、見る者にインパクトと印象を与えます。
数ある工業製品の中で、宣伝もしないのに世界中にその名を轟かせた物は非常に少なく、通常、メーカーは巨額の宣伝費を投じ、消費者にアピールし、製品の名称を覚えさせようとするものです。
ジープは当初、これを宣伝、販売する事ができませんでしたが、にもかかわらずジープの名は地球の隅々にまで浸透しています。

自動車メーカーの思惑と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、わずか数年前の自動車を見るとき、それが未登録の新車であったとしても、明らかに数年前の古い車に見えてしまいます。

MB/GPWと呼ばれるクラシックジープが、完全にレストアされ、どこかの街角に駐車していたとして、これらの老兵達が、50年以上も前に生産されたクラシックカーとして見る人がどれだけいるでしょうか?

必要なもの以外の全てを取り除き、人間工学と機能の追求から生まれ、ボンネットからリアボディへのまるで箱を思わせるデザインは、単にプレスの容易さからのデザインとは思えない究極のスタイルとなっており、各部は黄金比によって構成され、時代をはるかに超えた美しさを持っています。

1930年から1940年の自動車にみられる、前後のフェンダーとボディが別物でフロントフェンダーの上部にヘッドライトをのせた自動車デザインに、革命を与えるようにボディとフェンダーを一体にし、ヘッドライトをラジエーターグリルの中に納めるデザインは、後のあらゆる自動車のデザインに大きな影響を与え、四輪駆動のためのメカニズムも多少の改良はみられるものの50年たった現在でも殆ど進化がみられないこともまた事実です。

戦後アメリカ兵達の持ち込んだジープは、日本の自動車業界にも強烈なインパクトを与え、自動車設計者達はもとより、自動車デザイナーにも大きな影響を与えました。
ジープは戦後の国産車設計の良きお手本であり、ジープがなければ、今日の世界第一位の自動車生産大国日本は存在し得なかったのではないでしょうか。

The famous cutaway of the MB
The famous cutaway of the MB

by the late Max Millar,father of the art(Autocar)

ジープの奇跡

1940年代の世界の緊急事態に対応するためにアメリカ政府は、GI(若きアメリカ兵達)を全米のあらゆる地域から集め、それまで自動車など見たこともない者達にまで、それこそオートバイから戦車まであらゆる乗り物を与え訓練しました。

ジープは、自動車王国アメリカが、若者達に与えた高価な玩具でしたが、その性能は設計者達の想像をもはるかに越えた自動車とは思えない能力を発揮し、D-Day(ノルマンディ上陸作戦)では、まるでストーブの煙突のような吸排気管をつけた防水ジープは海からやって来て、子犬のように身震いし海岸を走り出しました。また、山間部では、パラシュートをつけて空からやって来、整備された道を1度も踏むことなく何カ月も作戦行動に従事しました。ジープは、雪やぬかるみ、ジャングル、峡谷、砂漠を走り抜け、バンパーは曲がり、フェンダーはめくれ、塗装は剥げ、鋼鉄のボディに穴が開いても戦場を走り続け、GI達の命を守り続けたのです。

ジープはまるで、ナイトを乗せる白馬のようで、若いGI達の志気を向上させ、連合軍を勝利へと導きました。戦後のジープ賛歌に、「ジープ無くして勝利は無かった」と言われるのはこのためでしょう。

アメリカンドリーム

独特のギア比による加速、きびきびしたハンドリング、卓越した機能美から生まれたスタイルをもつジープで、フロントウィンドーを畳んで風を感じるとき、ドライバーはジープと一体になり、純真な子供になれるものです。このフィーリングは、ジープ以外のどんな自動車を持ってきても感じられないものです。ジープは遊園地の自動車の兄貴分のようで、子供から大人までを見ているだけでワクワクさせてくれる唯一の自動車ではないでしょうか。

自動車メーカーが商品として売り込むために、無駄なデザインと利益追求のためにコストダウンされ尽くした車でなく、機能追求から生まれたデザインと、兵器として生まれてきた悲しさが、ワイルダネスアウトドアーの足として大自然の中に溶け込み、その悪路の走破性は西部開拓時代の馬のようであり、アメリカ人のパイオニアスピリットとして生き続けているのです。

ジープの保存と収集

ジープは兵器として生まれ、その永続性については全く考えられていませんでしたが、機能追求のみでデザインされたそのスタイルを今日のデザイン学によって分析するとあらゆる部分において究極のサイズと言われている黄金比で構成されていることがわかります。

その生産目的から誰もがその永続性を考えることのなかったジープは、戦後世界中で払い下げられ、多くはスクラップとなり溶鉱炉で溶かされ、また農業機具や建築器具の一部として、トラクターの替わりにあらゆる作業に従事しその万能ぶりを発揮し経済復興の助けとして活躍していました。

一方、ヨーロッパの貴族階級を中心として程度の良いジープが歴史的な資産として保存され続けていました。彼等にとってはまさしく、旧ナチスドイツ(と旧日本軍)から救ってくれたGIの乗る「白馬」であり、「神馬」であったわけです。

現在においては、欧米中の博物館や個人のコレクターのもとで、沢山のクラシックジープが優れた状態で保存されています。
私たち「JMVCC 日本クラシックジープ協会」は、日本においてもこのすばらしいクラシックジープを「クラシックカー」として認知し、保存していこうとしているのです。